2022/10/19 16:26
(※この記事は、2020年11月に執筆したものです)
鴨のコンフィを作りました。
以前、鴨ならぬ鶏のコンフィは作ったことがあって、それなりに自己満足できるくらいには仕上がったことはありました。
鴨のコンフィというのはレストランに行かないと、なかなか頂く機会がありません。
こういうご時世でレストランにも行けないので、自作することにしました。
(本当は財布の問題が大きいのに、コロナのせいにしてるんですが)
きっかけは近所の食品スーパーのチラシに、鴨肉の特売があったからです。
鶏肉の特売はあっても、鴨肉の特売というのは、数年に1度の珍事ですから、応答せざるを得ません。
1人で200gは欲しいところですので、3人前で計640g調達しました。
小分けになって売っていたので、4パックまとめて購入です。
こういう変な買い方がPOSデータ化されると、「このエリアでは鴨が良く売れる」みたいな解釈をしてしまうのか、他人事ながら心配になります。
ちゃんと異常値としてハネてくれるんでしょうか??
ごく普通の食品スーパーですから、こういう切り身になって売っていました。
本当なら骨付き腿肉と行きたいところでしたが、そんな特異な食材は、広尾のナショナルか麻布の日進ワールドデリカテッセンあたりに行かないと難しいですから、これで作ることにします。
まあ、骨がない分だけ、グラム当たりの肉の価格はお買い得です。
それはそうと、この肉をみても、脂の乗りが凄いですねえ・・・
べったりと、濃厚な脂身が眼に焼き付きます。
実は、そこがコンフィという調理法の真骨頂なんです。
油で脂を制す、みたいな。
シーズニング入りの塩を振りかけ、よく揉み込みます。
玉ねぎを適当にスライスして肉に混ぜます。
素人の場合には、下手に素材からスパイスを揃えるよりも、既成のシーズニングを用いたほうが簡便なうえに「それらしく」味がつくので、手放せません。
(弊家では、好みや素材に応じて3つくらい用意しています)
落としラップをして、冷蔵庫に入れて半日冷やします。
この冷却の過程が大切なんだそうですが、その能書については深入りしないことにします。
6時間ほど冷やしたら、たっぷりのオリーブオイルで煮ます。
油だけで温度を低く抑えて煮込むのが、コンフィの肝なんだそうです。
最低2時間、人によってはもっと時間をかける流派もあるようです。
長時間の低温調理によって、頑強な鴨の繊維が溶けていきます。
それと、油同士の浸透圧でもって、肉の脂分が削ぎ落されていくんだそうです。
じっくりと煮込んだら、鍋の油ごとタッパーに移してまたまた冷却です。
玉ねぎはもうすっかり融解して形がなくなっていました。
最低でも半日は冷蔵庫に置いておくそうです。
加熱したのを冷却する過程で、肉質が劇的に軟化するんだと、どっかに書いてありました。
へぇ~~
今回は1昼夜寝かせましたが、数週間でも持つ保存食なんだとか。
据え置き後に見てみると、このように油脂分が凝固してます。
ここから可食部(らしき部分)をすっかり取り出して、フライパンで焼きます。
最初に加熱して出てくる油をできる限りキッチンペーパーで拭い去ります。
これでカラッとした食感に持っていくという寸法です。
いままでは、調理中の食材の見てくれをつぶさに眺めていても、これで大丈夫かよ?という途中経過でしたが、ここまで来ると、なんとなくそれっぽくなってきたので、少々安堵します。
しかし、いにしえの「功名の木登り」ではないですが、最後の詰めが肝心です。
なお、この作者とされている兼好さんの経歴などは後世に捏造されたものだと、中公新書かなんかに慶応の教授が書いてました。
作者の出自はともかくとしまして、なんでも完成間近に陥穽が待っているというのは自戒したい箴言です。
さて、肉のほうですが、これはパラっと、カラっと仕上げたほうが美味しいです。
ちょうどチャーハンと同じです。
ということは、やっぱり道具です。
フライパンは、素人でも失敗の少ない焦げ防止加工のついた、新しいものを使います。
消耗品と割り切って、年に1度買い替えるというのが現時点で弊家の正解としているところです。
価格の高いもの、宣伝にカネをかけているものも、使い込んで表面がへたってきたら、しょせんお払い箱行きですから。
中学時代に、書道の授業には専門の書道の先生が校外から来講していました。
彼によると、「弘法筆を選ばず」は間違いで、やっぱり良い筆を使わないと良い習字はできないと力説していました。
今回は買い替え直前のフライパンでしたが、なんとなくそれらしくできました。
(漬け込むときに散らしておいたロリエの葉っぱが取り切れていないのがご愛敬)
オーブンで焼いたじゃが芋を添えます。
肉に味が浸み込んでいますので、ソースは特に要りません。
う~む。。。
フランス料理屋さんで食べるような食感が再現されています。
お蕎麦屋さんで出てくる鴨南蛮の鴨は、ちょっと火を通したという加減で、肉らしい歯応えが特徴です。
蕎麦、長葱、鴨肉と、三者三葉の食感の落差を1杯の蕎麦で実現した往時の創作料理ということになります。
このコンフィは、鴨南蛮の歯応え系とは対極でして、コソっとボロけてくる崩落系です。
同じ食材から180度異なる味わいを得るのも、日本の食の多様性の絶妙なところです。
作るのに時間はかかりますが、手間や技能面では難しいところはありません。
何よりも、鶏とはやっぱりテクスチャが違います。ホロっといくところが。。。
なんといっても、口中で醸し出される風合いが、独特でクラス感を感じさせます。
そんな料理にはそれ相応のワインが求められます。
脂の乗ったローストではなく、削ぎ落したコンフィなので、年代物のボルドーという選択にしました。
ボルドー、とくにメドックの上級シャトーたちも、新大陸のアメリカ人評論家の投ずる田舎者丸出しの評点傾向に迎合して、ピンキーとキラーズではないですが、「濃いの季節」に突入してもう四半世紀が過ぎてしまいました。
なんでもかんでも濃く、甘く、渋く、重くという、単一スケールでの数値を極大化させて、とにかく目一杯ストレッチするという新自由主義的なワイン造りが世界的な傾向になってしまいました。
いくら食文化論をぶったところで、先立つものには代えられないというのも商売ですからわからんわけではありませんが。
そこで本欄では既出のワインですが、ビンテージ違いで1995年がありましたので、これを開けました。
メドック地区のギルド(同業組合)を構成する由緒正しい生産者が、会費として現金ではなく自社のワインを樽ごと供出することが、日本でいえば江戸時代から行われてきました。
組合ではそれらを上手くブレンドして、組合名のワインとして出荷し、組合の運営費に充当しています。
ちなみに、ボルドー地方の「名誉騎士号」の認定機関でもあり、私もその昔、こちらから騎士叙任の栄に浴しました。
このワインですが、毎年、非常に良く出来ているのです。
なにせ、構成員はラトゥールやラフィットも含む錚々たる顔ぶれです。
彼らは自己の面目にかけても、「出来の良いワイン」を供出します。
さて、ボトルを見ていきますと、液面はネックで充分です。
噴きこぼれの痕跡もなく、非常に良い保存状態だったことを窺わせます。
グラスに注いだワインは未だ煉瓦色にはならず、深紅のベルベットの色調を保っています。
香りは葉巻の箱の中という、教科書そのままです。
含んでみると、1口目から優美なテクスチャに酔いしれます。
タンニンは柔らかく溶け込んでおり、繊細で都会的なフィネスが満点です。
ほのかな甘味も渋味も残り、混然一体となった素晴らしい状態です。
濃いの季節とは無縁で、そんな発情した若い衆の乱痴気騒ぎから遠く離れた孤高の境地です。
ワインの女王の風格が出ています。
これを「落ち始めている」と評する向きもあるかもしれません。
しかし、株式投資と同じで、いつの時点が最高値(さいたかね)であるのかを事前(開栓前)に予言することは、神ならぬ身では不可能です。
そういう観点からすると、当時の小売定価2500円と決して高いわけではないワインが、25年の歳月を経てなお絶頂に近い味を残していたこと、そしてその時に鴨のコンフィで頂けたことに感謝の思いがこみ上げてきたのでありました。