2022/12/28 11:49
(※この記事は2021年11月に執筆したものです)
年がら年中、粗食系の美食を探求している身としては、「食欲の秋」って理解が難しいですね。
秋じゃない時には食欲ないのかと腑に落ちません。
聞かなくなったと言えば、新聞週間なんて週間もありました。
『サザエさん』の戦後すぐ、昭和20年代後半から30年代初頭の作品などによく登場しました。
朝日新聞に連載していたから仕方ないとはいえ、その頃にはまだ新聞というメディアが世間で一種の尊敬まで浴していたのですから、隔世の感とはこのことです。
芸術の秋といっても、密はダメだと小うるさいので、炎上を恐れる主催者は何もしないほうを選択する傾向にあります。
そんな中、三菱1号館美術館で写真のような企画が挙行されているので、昨日行って参りました。
印象派が好きとか嫌いとかいえるほど美術に土地勘があるわけでもないので、同居者の誘導のままにたどり着いたのが偶然この展覧会だったという次第。
昔の建築を残しつつ高層化するだけでなく、その内装意匠もそのまま用いて美術館を開館したというのは結構なことです。
得意先の飲食店がこの一角にオープンしたのが、もう10年も前のことで、今回店名盤を見たらまだ営業中だったのは、時節柄ご同慶の至りといえます。
話は飛びますが、その店のオーナーは自分よりも10歳ちょっと上で、飲食業界の隠れた風雲児と呼んでもいいようなキャラクターでした。
彼によれば、飲食業の必勝公式は、とにかく飲み盛りの中年オヤジに照準を絞るということです。
マスメディアなどは、「女性向け」とか「おしゃれなお店」などを殊更有難がって採り上げたりするけれども、商売としては中年男だよ、やっぱりね、飲む量が違うから、飲む量が・・・という御高説を盆暮れに挨拶回りしていた頃に拝聴するのが楽しみでした。
若い頃に、都心のオフィスビルのミルクスタンドに居候の形でサンドイッチ屋を始めたのが出発点でした。
それ以来、ありとあらゆる業態を多数出店して、数十年にわたり成功も失敗も繰り返してきた現場感あふれる話は、聞いていて飽きることがありません。
西洋絵画、とりわけ印象派は日本人に大受けの領域で、入場制限があるという触れ込みでしたが、午前中に滑り込んで、待たずに入場することができました。
休日なので若い方々も多く来場していました。
ここが、同じ西洋古典芸術でもクラシック音楽業界とは天地の格差があります。
クラシック音楽の中でも、オーケストラ曲の大半は絶対音楽であります。
要するに、なにかのテーマやストーリーに沿ってそれを表現するという発想自体がありません。
純粋に音楽だけ、つまり音符(と少々の表現技法を指定する断片的な記載)だけを用いて作成された「楽曲」を再現した「演奏」をただ単に黙々と聴き及ぶという営為です。
慣れてくると、聴いていて心を揺さぶる感動を覚えるのですが、慣れるまでには、長期かつ忍耐の伴う習熟期間を要します。
何の準備もなくて、ふらっと聴いても眠くなるのがオチでしょう。
そこが、印象派絵画とは正反対ともいえます。
来場客の構成にその差が如実に表れています。
オーケストラの演奏会の客席は、限界集落に残った住民のような後期高齢者が主流です。自分のようなアラカンは、青二才とか鼻垂れ小僧の扱いです。
限界集落との唯一の違いは、めったに女性をみかけないことです。
テーマ性、ストーリー性と無縁な世界の存続可能性を、他人事ながら心配しているところです。
先々月には、建築の展覧会を訪ねました。
建築は、人間の日常生活と切り離せない点で、テーマ性のある領域といえます。
竹橋の国立近代美術館で、隈研吾の大特集でした。
一定の条件下で撮影自由という展覧会でした。
模型が多く展示されていて、視覚的に楽しめる企画でした。
こちらは、「高輪ゲートウェイ」駅の模型です。
図版や模型だけでなく、東日本大震災のときに速攻で現地支援に赴いたときの映像なども再現されていて、多角的に理解することができる企画でした。
世界的に広く活躍する隈研吾の実力を改めて認識する展示でした。一部のコーナーでは、来場者による自由な写真撮影可という扱いにも好感が持てます。
同時に、そんな実力者を教授として擁していた東大が、なぜ早稲田OBの福武某の資金で安藤某による風光破壊壁を学内の一等地に建造するという暴挙を止められなかったのか、疑義は深まるばかりでした。