「ダブルビル」と聞いて、思い浮かべるのは誰と誰でしょうか?
ビルさんが2人ってことです。
1人はかのビル・クリントンでしょうか。
でもって、もう1人はといいますと・・・
昭和のプロレスファンでしたら、ビル・ロビンソンとくるでしょう。
言わずと知れた「人間風車」であります。右の絵の赤いトランクスの選手です。(画・弊社美術部、2枚とも)
人間風車というのは、大技ダブルアーム・スープレックスに無理矢理つけた日本語名ですから、技の名前なんですよね、本当は。
ですから、人間風車を得意技にしてたからといって、ビル・ロビンソンの愛称というか別称として「人間風車」というのは、ちょっとしっくりこないという方もおられると思います。
ブルーノ・サンマルチノ=人間発電所
これはいいわけです。そういう技はありませんから。
人間発電所とのアナロジーで、ビル・ロビンソン個人にも付けちゃったということなのでしょうねえ。
まぁ、ここでは固いことは言わないことにします。
一方のクリントンさんといえば、もう米国民主党もヒラリー女史の時代も終わったようですが、夫婦でアメリカ大統領になったら面白かったのに残念でしたね。
以前、こんな逸話を聞いたことがありました。
クリントン夫婦が休日に自家用車で近所のガソリンスタンドに給油に寄ったそうです。
ヒラリーが顔なじみのスタンドの兄ちゃんと言葉を交わすのですが、それがなんとも絶妙な「いい感じ」になってるのを、横で見聞きしていたビルが呟いたそうです。
「大統領夫人じゃなかったら、ガソリンスタンドの女将(おかみ)になってたってわけか・・・」
それを聞いたヒラリーは、「違うよ」とかぶせました。
「その時には、あんたが大統領になれなかったってことだよ」
嘘か本当か知りませんが、あのヒラリーならいかにも言いそうなことですね。
よくできてます。
さてさて、「ダブルビル」という英語で、「ビルが2人」という解釈は、実はありえないみたいです。
数えられる何かが「2ケ」あるという状態は、twin であって、double とはいわないんだそうです。
double は、1個で2個分、1人で両性具備とか、両刃の刃とか、そういうふうに、存在としてはあくまで単数というのが英語の発想らしいのです。
ダブルベッドは、1個で2人分、寝台が2ケならダブルじゃなくてツイン。
ツインタワーがあっても、ダブルタワーはない。
「ダブルビル」の話に戻りますと、「ビルが2つ(2人)」ではなくて、「2つ分のビル」ってことになります。
ここでいう「ビル」は、勘定書きでもいいのですが、≪bill≫という英語の名詞には「書かれた告知」という意味が元来あるらしくて、芝居小屋や音楽会の演目表のことを特に指すことがあるらしいです。
そんなことで、「ダブルビル」とは、お芝居の業界では「2本立て」ということになるという寸法であります。
いまオペラでもっとも一般的なダブルビルといえば、このカップリングでしょう。
イタリアのヴェリスモ(写実主義)オペラの代表作2つを、1公演にまとめて上演する組み合わせです。
これは客として何度も見ましたけど、非常にお買い得感があります。
写真は、2010年の藤沢市民オペラのプログラムの表紙です。(古い物も取っておくと、役に立つこともあるのですね~)
御存知の方には釈迦に説法ですが、藤沢市民オペラは、いわゆる「市民オペラ」ではありません。
厳然としたプロの、それもかなり名声も実力も兼備したオペラ歌手総登場の、すごい催事です。
この時には、テナーの笛田博昭を初めて知って、その超絶声量とパワーに腰を抜かしたことを思い出します。
ホールのうしろの壁面の近くに座っていたのですが、彼の声が反射して、壁がビリビリとうなりを上げて振動しているのが、モロに伝わってきました。
誇張じゃなくて、ホントにそうだったんですよ。
いや~、あれにはびっくらこきました。
それから10年を経て、いまや「日本三大テナー」として押しも押されもせぬ実力者になっています。
ちょっと間が開いて、9年後に珍しいダブルビルに巡り会えました。
この写真は、そのときに購入したプログラムが手許にあって撮ったものです。
新国立劇場の新しい芸術監督に就任した大野和士の方針で、「フランスもの」「ロシアもの」「ダブルビル」の重視という方針が打ち出されたという解説もなされているみたいです。
ジャンニスキッキは、演目自体よりも「私のお父さん」がアリア名曲集の常連なので、題目だけは既知なのですが、フィレンツェの悲劇という作品はノーマークでした。
ツェムリンスキーの歌劇なんて、よほどのことがないと観る機会ありませんから、良い時に巡り会えました。
ちなみに、ジャンニスキッキの演出は極めて斬新で、かといって古臭くもなく、現代への読み替えでもなく、トイストーリーのような発想で、面白かったです。
そして、2021年はこちら。
ロシアもののダブルビル!
これは跳んだ発想です。芸術監督の意欲というか、熱い想いを感じる番組構成です。
(この写真も手持ちのプログラムの表紙です)
チャイコフスキーのイオランタも、ストラビンスキーの夜鳴き鶯も、そうでなければ永遠に観ることはなかった可能性が高い作品です。
イオランタのタイトルロールを演じた大隅智佳子が大秀演でした。
生れながらの盲人という役柄に合致したほの暗いトーンをたたえつつ、張りのある声量と舞台映えぶりが見事でした。
ワインにおける2本セットという設定は、オペラの2本立てよりも発生確率は断然高く、ごく普通に存在します。
昔の贈答品では、「紅白セット」というのが一般的でしたが、「赤ワインが大好き」な人への贈り物としては、「赤ワイン2本セット」という選択も増えています。
そのような流れの中で、弊社で前世紀末に組んだ贈答セットが、なんとそのままの姿で定温倉庫の奥から最近になって発見されました。
最後の1セットが、そのまま残っていたようです。
こちらです。
木箱にサテン風のクロスが、いかにも20世紀の贈答品のスタイルを踏襲しています。
シャトー・ラトゥール 1986年
シャトー・ド・ラ・トゥール 1995年
かたやシャトー・ラトゥールは、言わずと知れた1級シャトーの筆頭格です。
ヴィンテージも1986年と、誠に立派な年でありまして、銘柄も年号もぐうの音も出ない逸品です。
こなたシャトー・ド・ラ・トゥール。
絵柄にはシャトー・ラトゥールと同様に、「塔」とも「櫓」ともいわれる、中世の戦陣構築物が描かれています。
こちらは、メドックでもなくて、AOCはボルドー・スペリュールです。
とはいえ、1995年とこちらも大変秀逸なヴィンテージです。
箱詰め当時の輸入者希望小売価格は2000円か2500円だったと記憶しています。
前世紀末でその価格であれば、普通に美味しいボルドーワインが頂けました。
当時試飲した記憶が鮮明に蘇ってきました。
まっくろな液体の色合いが、ボルドーというよりは南西部で作られるタナ種を彷彿とさせました。
お味のほうは、濃淳なワインと言えば聞こえはいいのですが、平たく言うと、硬さと渋さが前面に出ているワインでした。
しかし、これは悪いことではありません。
優良生産年の上質な赤ワインを、瓶詰後数年で試飲すると非常によくある現象です。
長期熟成に向けて深い眠りに就いている状態といえます。
それを無理矢理起こしたわけですから、当然不機嫌です。お愛想など振りまいてはくれません。
人間でも反抗期には、親の言うことなど聞かないものです。
そういう子供が将来大物になるかは別として、ワインの場合には生産者と生産年の裏付けがありますので、これは期待の持てるワインでした。
あれから約四半世紀が経過しました。
どちらも円熟の境地に入っていると思います。
同じ「塔のワイン」といっても、価格では当初から10倍以上の格差があります。
(今の時点では、数十倍になっているかもしれません)
こんな釣り合いの取れない2本セットは、普通はあり得ません。
諧謔のわかる方にしか贈れない代物です。
さて、諧謔と悪乗りの境目とは、いったいどの辺にあるのでしょうか?
ビル・ロビンソンとビル・クリントンから話が飛んでいるうちに、ビル・ゲイツを忘れていたことに気づきました。